ジャズと小噺

(18) タンゴとの出会い 

Yoshinori Yoneyama with Leopoldo Federico

私たちが中学生の頃、昭和20年代から30年代の初めの頃です。ラジオではタンゴの番組が流れていました。藤村有弘が流暢なインチキ・スペイン語で「エキサルタンゴポルテーニヤヴェントダリエンセセンチメンタリーノ」なんて言うわけです。DJってやつです。

アルゼンチンタンゴやアルフレッド・ハウゼのコンチネンタルタンゴもレコードがかけられていました。

この頃にタンゴに魅せられた学友が今でもタンゴバンドのリーダーをやっています。

1987年にアルゼンチンのブエノスアイレスに行くことになりました。ここで、カーサブランカというライブレストランに出かけました。大体はタンゴバンドとフォルクローレバンドが入っています。

当日のタンゴバンドは日本でもよく知られたレオポルド・フェデリコ楽団でした。タンゴのライブはこれが生まれて初めてだったのです。

このバンドには日本人と思しきメンバーがレオポルドの隣でバンドネオンを演奏していました。案内してくれた方に尋ねると「日本人で米山義則という人」とのことです。18歳のときに単身アルゼンチンに渡り、バンドネオンをフリオ・アウマーダのもとで修行したという人でした。この時はレオポルドのバンドで活躍していました。日本にも毎年来ていました。渋谷のパルコホールに聴きに行ったことがあります。

米山さんとレオポルドの演奏している写真を見てください。語り合うようにして演奏します。二人の演奏はまさにセッションなんです。わたしはお尻が宙に浮きました。感動的な光景でした。タンゴは情熱的と一言で言いますが、この演奏はジャズ好きのおじさんの横っ面を張り倒すような衝撃でした。

米山さんは1955年生まれですが、2006年に若くして亡くなりました。私がブエノスアイレスで見に行ったときは弱冠31歳か32歳の頃だったのです。

議事堂(Congres Nacional, Buenos Aires)

藤村有弘は48歳の若さで1982年に亡くなってしまった。若い人たちは彼の多芸とその面白さを知らない。後にタモリがハナモゲラ語をあやつり、テレビの寵児となったが、それ以前にわれわれ爺は藤村のユニークな芸を見聞きしていたのだ。


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