ジャズとコーラス

(3) 金門四重唱団 Battle Of Jericho

 

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         Orlandus Wilson       Caleb Ginyard Clyde Riddick Clyde Wright
1950年代のGolden Gate Quartet


1985−1990年代
ミルス・ブラザースの影響を受け、ミルスが初レコーディング3年後の1934年にGolden Gate Quartetというゴスペル・黒人霊歌のコーラスが誕生しました。最初は、ワシントン・ハイスクールの合唱団のなかから選ばれて結成されました。50年代から60年代にかけてはよく来日し、各地でコンサートを開いてくれました。東京での公演には必ず出掛けました。ライブでは伴奏は常にピアノ一本でした。オーケストラの伴奏は邪魔なのです。このことはレコードを聞いていただいてもわかります。

結成当時からのリーダーはバスのオーランダス・ウイルソンという写真前右のおじさんですが、腹に響く低音と歯切れのよさはグループの支えになっておりました。左はクライド・リディック(Top)、真ん中はクライド・ライト(2nd)、右後ろはポール・ブレンブリー(Baritone)ですが、カレブ・ギンヤードが健康を損なって唄えなくなり、オーランダス・ウィルソンの甥っ子が、1971年から加わったのです。

「ジェリコの戦い」といえば、想い出す方も多かろうと思います。デューク・エイセスは彼らを模倣するところから始まりました。私の高校から大学時代にはゴールデン・ゲートの真似もずいぶんやりました。

とにかくゴールデン・ゲートは男性カルテットの基本中の基本なのです。ジャズはもちろん、ラテンやハワイアンまで幅広く彼らのスタイルで聞かせてくれました。

昭和44年夏、まだ生後3ヶ月の長女をオーディオの前に座らせ、いろいろなレコードをかけてどう反応するか実験したことがあります。

バラードにはまったく反応しません。当たり前です。生後3ヶ月の幼児にラブソングをきかせるなんて。難しい和音もだめです。そうか、ハーモニーもだめなんです。

ゴールデン・ゲートをかけると、きまって手足をばたつかせそのビートとリズムに反応するのです。どうやら嬉しそうなんです。大変に興味深いことだと思いました。


Golden Gate Quartet(2002-2004)

1994年は結成60周年を祝い殿堂入りが決まった"UGHA Hall of Fame Awards Celemony"に出席し、およそ40年ぶりにNYCで唄いました。1958年からは、ゴールデンゲートの活動の拠点はパリで、ヨーロッパが中心だったのです。

クライド・リディックが1995年に82歳で引退し、その後亡くなり、オーランダス・ウィルソンも1998年に81歳でパリで亡くなりました。

1999からクライド・ライトがグループに復帰し、トップにFrank Jerome Davis(上)、2002年にはバスにTerry Francis(下)が加わりました。オーランダスの甥っ子、ポールはグループのリーダーとなっています。


BassにRichard Phillips(2004-2005


2005年以降 Anthony Gordon (Bass)

1940年代の後半にカナダにツアーをしていますが、そのステージを見てFour Ladsが誕生します。道理でニグロを唄っていました。それに続いてCrew CutsとDiamondsも結成されましたが、彼らはポップコーラスのジャンルでヒットソングを残しています。彼らの記事は本章の(27)にあります。


今夜(02/12/15)のことです。自分で老人と称している脇地 駿さんという男性からメールをいただきました。このページをご覧になって懐かしくてメールを書かれたものです。

はじめてお便りします。
貴サイトの標記を拝見し、懐かしく思いました。
若かりし頃、The Hit-Paradeという映画を見て、その中のJoshua fit de battle of Jerichoの場面に興奮したものでした。
ヒットパレードらしく、ご都合の良い筋書きでストーリーは進みます。
悪漢が追い詰められ(?)最後に walls came tumblin' down でガラガラと周りが崩れ落ち、悪漢が御用!となるのでしたっけ。
彼らが大統領の御前演奏をしたとか。(それはルーズベルト大統領の就任祝賀会です(爵士樂堂注記))
来日の際は何をおいてもコンサートに駆けつけました。
伴奏はピアノだけ、とありましたが、厳密にはThree Rhythm(Piano, String bass, Drums)伴奏でした。
<たしかに他のグループとは違い、バンドの伴奏はなかったと記憶します>
特にドラムのスネアに痺れたものでした。

ついつい老人の思い出話になってしまいました。失礼

♪♪♪ わっきー ♪♪♪

Hit Paradeという映画は毎年作られていたようで、上記の話は1943年のものらしいです。ダニー・ケイが主演していたものです。わたしが2歳か3歳のときの映画です。戦後になって上映されたのでしょう。脇地さん、ご自分のことを老人とおっしゃっていますが「わっきー」などというニックネームを使い、何々、お若いではありませんか。

バンド演奏によるコンサートはあったか無かったか定かな記憶はありませんが、レコードにはいろいろありました。


その後日談です。

脇地さんという方は、只者ではないという私の直感がありました。

同志社大学時代あるいはその後も、CCD(同志社の混声合唱団)やグリークラブで指揮者をはじめ指導的な役割を果たされ大活躍した人物で、同志社大学関連のSiteには脇地さんのことがたくさん書かれていました。関西ではその名を轟かせた方だったのです。

驚きました。同志社1959年卒とありますから、まだまだ若者です。大阪・京都ゲヴァントハウス合唱団で現在も活躍中ではないかと思います。ホームページも出来ました。(2004/8/3)

そのまた後日談です。(2005.2.8)

同志社には伝統のあるカルテットが目白押しですが、脇地さんの後輩に当たる佐藤道雄さんからメールをいただきました。このページを見てビックリしてのことです。


Four By Four

熟年コーラス”Four By Four”をやっておられます。そのホームページを見て、私は「う〜ん」とうなったきり仰け反ってしまいました。この方達は100年もコーラスをやっている妖怪に違いありません。レパートリーを見て御覧なさい。

むかし、私はゴールデンゲートのレコードを擦り切れる程聴きました。4by4の十八番の1曲だと思います、Shadrackを聴いてください。

京都とはなんという土地柄なんでしょう。


脇地さんは歌える間は歌おう、歩ける間は歩こうを実践されています。

2006年の夏にはアルプスの三大名峰をトレッキングをされて沢山の美しい写真を撮ってご自分のホームページを飾っています。

先日、久しぶりにそのホームページを開いたところ、驚くなかれカウンターは丁度10000を指しています。

すぐに知らせました。記念にこの写真をいただきました。こうしてお付き合いが続いています。(2006/9/24)

脇地さんから久しぶりにお便りをいただきました。そこには月下美人が今年も咲いたとあります。あまりに見事なので、皆さんにもお目にかけましょう。(2007/9/16)

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Four By Four 東京で初ライブ

神楽坂 The Glee

2012/6/23


西村兼男(pf)   森島敏夫(2nd)      長谷川邦男(Top)   佐藤道雄(Bari)     堀部勝也(Bass)

神楽坂にThe Gleeというライブ用のミニホールが出来ました。オーナーは同志社のグリーOBです。そんな関係でフォーバイフォーに声がかかり、東京での初お目見えとなりました。

脇地さんから「4×4が東京で初ライブをやります」とお知らせがありました。早速、佐藤さんに連絡を取り予約をお願いしましたが、85名の満席でのライブでした。歴史の古いカルテットのMCはそれぞれの人柄がにじみ出て、ユーモアにも富み、アンコールも3曲という大サービスでした。

もともと、レパートリーの凄さに驚かされたのですが、今夜はジャズ・スタンダードと古いPop Songが中心でした。Four Freshmen、Four Nights、DriftersからInk Spotsも登場、2nd SetではGGQの”Shaderack”も聴けました。さらに、和田アキ子の「あの鐘をならすのは・・・」もあったり、ジャンルの広さにも驚きますが、お客様をあきさせないようなプログラム構成となっていました。

このグループは脇地さんの後輩になるのですが、「長谷川君が大病後というのにようやる、とちょっと感動してご案内に及びます」というメールだったのですが、長谷川さんは一番高いパートを2時間もフルに歌われました。

平均年齢が70歳とのことでしたが、まだまだ歌い続けるに決まっています。見ただけで分かります。和やかで素晴らしいライブでした。(2012/6/23)


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