ジャズと歴史にまつわる話

ニューオリンズ・ジャズ
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ニューオリンズでの早創期の黒人たちのジャズを総称してニューオリンズ・ジャズと呼びますが、ブラス・バンドの即興演奏的な力強い音楽で黒人の好むものと、クレオールの上品な室内楽的な白人向けのものとがありました。

ニューオリンズ・ジャズがジャズの始まりとなります。

1910年代の半ばからジャズがシカゴ、カンザスシティそして西海岸、東海岸とミュージシャンたちが移動していくのですが、途中でニューオリンズに大勢帰ってきてしまいます。そういう人たちが、古いジャズのスタイルをニューオリンズで守り続けました。


クレオール・ジャズ

フランス人と黒人の混血を"Creole"とよびます。この地がフランスの統治下にあったためです。クレオールは当時でも黒人とは区別され、奴隷制度のある中でニューオリンズでは白人並みの有産階級とされていました。奴隷制度廃止後、単に黒人とみなされるようになりました。したがって奴隷制度廃止とともに人種差別を受けるようになった黒人がアメリカにはいたのです。

クレオールの旋律を"Creole Tune"と呼びます。クレオールのジャズを"Creole Jazz"と呼びます。

しかし、クレオールと黒人が「同じただの黒人」になって初めてジャズらしいジャズがうまれるのです。はじめクレオールの音楽はヨーロッパ的なより洗練されたものだったのです。


ディキシーランド・ジャズ

一方、白人たちも黒人のジャズをまねてトランペット・トロンボーン・クラリネットの3管編成を中心とするニューオリンズ・スタイルのジャズを始めました。これがディキシーランド・ジャズと呼ばれています。

一旦は流行らなくなったディキシーランド・ジャズは1939年の終わりから1940年に復活します。ビッグ・バンドより小編成の金のかからないバンドがもてはやされるようになったからです。


ディキシーランド(Dixieland)

ニューオリンズ(New Orleans)、そうです、ニュー・オルレアンの意味なのです。オルレアンはパリから少々南にある田舎です。まだフランス統治下だったころ、中央銀行の10$札にはフランス語で"DIX"と印刷されていました。

そこでニューオリンズは"Dixieland"と呼ばれるようになり、やがて南部一帯をそう呼ぶようになりました。


ニューオリンズからシカゴへ


女郎屋の立ち並ぶストーリーヴィルが1917年に公娼制度廃止とともにさびれました。行き場を失った多くのミュージシャンがミシシッピを北上してシカゴに移って行きました。かくしてジャズはシカゴでますます栄えます。

1920年代はアル・カポネの闊歩した時代、ギャングはジャズマンたちに自分の息のかかったもぐりの酒場で演奏させました。

ジャズははじめ女郎屋のオカミたちに寵愛され、次はギャングどもの庇護をうけたのです。卑しい生い立ちだったのですね。しかし、だんだんと善良な人たちに浸透していくのです。


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